<まさる義の幸い マタイの福音書5章17~20節>
「地の塩、世の光」としてこの世に立てられているキリスト者は、世間の人から、聖書通りにいかない姿を見られて、「クリスチャンのくせに」と批判され、落ち込むことがあります。しかしキリスト者には『まさる義』が与えられています。『まさる義』とは、行いによる義でなく、信仰による義です。
1.まさる義とは、行いによる義でない
イエス様が教えた『義』(正しさ)とは、神様に認められ、天国に入る者とされる義です(20節)。『まさる』(20節)とは、ギリシャ語を直訳すれば『満ちあふれる』です。20節を直訳的に訳せば次のようになります。「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義よりも満ちあふれる豊かな義でなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」。律法学者やパリサイ人の義とは、「行いによる義」でした。彼らは旧約聖書の十戒、律法、そして彼らが自主的に作った613の戒めを守り行うことで義とされ、天国に入ることを目指し、人々に教えたのです。イエス様は彼らの行いによる義を、「偽善」という厳しいことばで批判しました。神様が見ているのは、私たちの外見の行いでなく、内面の心だからです。イエス様が、金持ちの青年に対して教えたことも同じです。イエス様は、青年が心の目を、外見の良い行いから、神様に背を向けて財産に頼っている青年の心の罪に向けたのです (マタイ19:16~22)。イエス様はマタイ5章21節以降で、モーセの十戒について、外見の行いだけでなく、心の憎しみ、心の情欲を教えています。私たちはモーセの十戒や律法を行おうとすれば必ず罪が示されます。私たちは、行いによっては義と認められないのです。イエス様が見ているのは、私たちの外見の行いでなく、私たちの心なのです。
2.まさる義とは、信仰による義です
『律法と預言者』(17節、罪と救い)とは、「旧約聖書」を意味しています。イエス様がこの世に来たのは、『律法と預言者』(旧約聖書)を廃棄するためでなく、成就するためでした。罪のない神の御子イエス・キリストこそが旧約聖書の律法を完全に守り行うことができるお方です。『律法と預言者』 (旧約聖書)は、今も私たちに罪を教え示す大切な役割を果たしています。イエス様は、「パリサイ人と取税人の祈り」のたとえ(ルカ19:9~14)で、自分で自分を義と認める取税人を見下したパリサイ人でなく、自分の罪を悔い改めた取税人を義と認めました。私たちは、自分の罪を悔い改め、キリストの十字架の死と復活を信じ受け入れる時に、神様が私たちを義としてくださいます。信仰による義は、私たちの内面から満ちあふれる義です。聖霊の働きによって、私たちの心がキリストに似た者に変えられ、私たちの心に御霊の実が豊かに実ります。そして私たちの外見に現れる行いが変わるのです。律法を心から真実に守り行う者に変わるのです。行いによる義に、はるかにまさる信仰による義に生かされ生きようではありませんか。天国に向かう幸いな歩みを始めましょう。
関連聖書箇所
◎マタイの福音書23章27、28節 27 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。28 同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。
◎マタイの福音書19章16~22節 16 すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。19 父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
◎ローマ書3章20節 20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
◎ローマ書10章4節 4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
◎ルカの福音書18章8~14節 8 あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
◎Ⅱコリント書3章18節 18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
◎ガラテヤ書5章22、23節 22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。