<一つのからだ一つのパン Ⅰコリント書10章14~22節>
コリント教会は「問題あるある教会」でしたが、使徒パウロは、コリント教会が問題に対処するための「着眼点」を教えています。「着眼点」とは、「聖餐式」(主の聖餐)です。主の聖餐こそが、礼拝の中心、教会の中心、私達の信仰生活の中心です。今朝聖書箇所で、使徒パウロは、「主の聖餐」について、『一つのからだ一つのパン』を教えています。
1.一つのからだ
使徒パウロは、『偶像礼拝を避けなさい』(14節)と教えています。コリント教会で起こっていた、具体的な偶像礼拝の問題以上に、私達の考え方に潜む「偶像礼拝」を避けることを教えています。そのために、使徒パウロは、主の聖餐の恵みを教えたのです。私達が神様をほめたたえるのは、聖餐式で配餐される『賛美の杯』(ぶどう液)と『パン』です。聖餐式のぶどう液(キリストの血)とパン(キリストのからだ)を食することで、キリストの血とからだにあずかり(交わり)、罪が赦されていることを味わい知ります。このことから聖餐式にもう一つ別の意味が加わります。キリストの十字架の死と復活にあって私達は、神様と和解し、兄弟姉妹と和解したのです。私達は大勢いても、『一つのからだ』(17節、キリストのからだ、教会)であることを、『一つのパン』(17節)で味わい知るのです。このことは、儀式的に無理矢理に一致させるのではありません。キリストの十字架の死と復活、キリストの御苦しみによって、キリストが私達を和解させ一つにしてくださったのです。だからこそ、私達は『一つのからだ一つのパン』を感謝して、共に受け取り、キリストの恵みを共に味わいましょう。
2.一つのパン
旧約聖書の中には、『異なった火』(レビ記10章1、2節)の記述があります。神様の権威に背く、「主が命じなかった異なる火」を献げたアロンの子二人は、神様のさばきを受けて即死したのです。聖餐式の正統なパンとぶどう液で聖餐式の司式を行うことができるのは、教会から任命された、按手礼を受けた牧師のみです。牧師が認めないパンとぶどう液は、「異なるパンとぶどう液」です。仮に、ある人が「教会には一致がないから、異なるパンとぶどう液で、自分で聖餐式を行う」と言い、教会で配餐される正統なパンとぶどう液を拒絶するならば、私達はこの問題にどう対処すれば良いでしょうか。異なるパンとぶどう液を用いる異なる聖餐式は、偶像礼拝です。『悪霊と交わる』行為です。主の杯を飲むことと、悪霊の杯を飲むこと、主の食卓にあずかることと、悪霊の食卓にあずかることは、両立しません。私達の教会では、「異なるパンとぶどう液による異なる聖餐式」を認めることはできません。私達は、『一つのからだ一つのパン』を、罪を悔い改めた、砕かれた悔いた心で、謙遜に感謝して、共に受け取り、キリストの恵みを共に味わいましょう。
関連聖書箇所
◎使徒の働き2章42、43節
42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
◎エペソ人への手紙2章14~16節
14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
◎レビ記10章1、2節
1 さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を【主】の前に献げた。
2 すると火が【主】の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは【主】の前で死んだ。