宣教メッセージ

2026年7月5日東村山キリスト教会主日礼拝 説教要旨

<キリストを覚える主の聖餐 Ⅰコリント書11章17~29節>
主の聖餐(聖餐式)は、私達の礼拝の中心、教会の中心、信仰生活の中心です。キリストを覚える主の聖餐において、十字架の死を覚え、自分自身を吟味し、罪を悔い改め食する。
1.十字架の死を覚える
当時は愛餐会と聖餐式が連続していたのです。コリント教会に集う金持ち達と、奴隷を含む貧しい者達の間に、食べ物に関しても貧富の差が生じていました。キリストの愛のない「愛餐会」と「聖餐式」について、パウロは、教会を分裂させている、主の聖餐でなく身勝手な聖餐である、神の教会を軽んじている、貧しい者達を恥ずかしい思いにさせていると厳しく非難しました。もし仮に、ある人が教会に一致がないことを理由に、教会で配餐されるパンとぶどう液を拒絶し、「異なるパンとぶどう液で異なる聖餐式」をしたならば、どうでしょうか。そのような「異なる聖餐式」を、牧師も教会も認めることはできません。それはまさに教会を分裂させる身勝手な「聖餐式」ではないか。神の教会を軽視し、教会員を恥ずかしい思いにさせることではないでしょうか。パウロは、正しい聖餐式が行われるために、主の聖餐の意味を教えたのです。聖餐式で裂かれたパンは、キリストの裂かれたからだ(キリストの十字架の贖いの死)で、罪が赦され、キリストと一つとされたこと、そしてキリストにあって私達が一つとされたことを現しています。聖餐式の杯(ぶどう液)は、キリストの血(いのち)によって、神様が私達と新しい契約を結び、私達が新しい契約の民となったことを現しています。『わたしを覚えこれを行いなさい』(24、25節)とイエス様が言われたように、パンとぶどう液と同じ確かさで、聖霊によって、キリストのからだと血(いのち)に真実にあずかることができるのです。
2.自分自身を吟味する
使徒パウロは、主の聖餐の正しい意味を教えた後に、「主の聖餐の意味にふさわしくない仕方(態度)」(27節)について教えています。「異なるパンとぶどう液による異なる聖餐式」は、まさに「ふさわしくない仕方」での「聖餐式」です。またそのような「聖餐式」をした罪を悔い改めることがない聖餐式は、「ふさわしくない態度」での聖餐式です。そのような「聖餐式」は、『主のからだと血に対して罪を犯している』(27節)です。「ふさわしい仕方(態度)」での聖餐式とは、『自分自身を吟味する』(28節)ことです。聖餐式でキリストを覚える時、キリストのきよさから自分自身の罪を示されます。キリストにあって一致しているにもかかわらず人間的な不一致があることに苦しみます。
3.罪を悔い改め食する
主の聖餐を受けるのにふさわしくないことを自覚する時、イエス様は『取って食べなさい』と私達に分け与えてくださるのです。教会で配餐されるパンとぶどう液を共に食し、キリストの恵みを味わい知ろうではありませんか。
●関連聖書箇所
◎使徒の働き2章42、43節
42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。

●参考文献
◎宗教改革者のジョン・カルヴァンは、『キリストを覚えて主の聖餐を行う』ことについて、次のように言ったそうです。
『聖餐において、信者は目に見える「しるし」である「パン」と「ぶどう液」を口で食べ飲むのと同じ確かさで、聖霊の働きによって、キリストのからだと血(いのち)、それも天にあって、来られるキリストのからだと血(いのち)に真実にあずかるのである。』(聖霊による現臨説)
◎私達の教会が所属している日本福音キリスト教会連合(JECA)が発行している「クリスチャン・ハンドブック」の中の「教会とは何か」という箇所の中で、「教会が真実な教会である教会のしるし」について次のように伝えています。
『一、聖書が正しく語られ、正しく聞かれていること
二、礼典(バプテスマ、聖餐式)が正しく執り行われ、正しく受領され
ていること、
三、戒規が建徳を目的として正しく執り行われていること、などが挙げられます』とあります。

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