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2026年2月22日東村山キリスト教会主日礼拝 説教要旨

<神に信頼して生きる人生 マタイの福音書4章1~11節>
「推し活」と「勝ち馬に乗る」ことの違いは何でしょうか。推す対象が、落ち目になった時、スランプに陥った時に、どのような態度を取るかに分岐点があります。その時期を、推す対象との結び付きを深め、自己の成長の機会とするのか。それとも成功体験だけを求めて、新たな「勝ち馬」を捜すのか。私達は、神様との関係についても「勝ち馬に乗る」ことを考えてはいないか。神様にいつも成功体験のできる「勝ち馬」を求めてはいないか。「神を信頼して生きる人生」とは、神を疑う罪を悔い改め、神の愛を信頼して生きる人生です。
1.神を疑う罪を悔い改める
イエス様が試みられた、荒野での悪魔の第二の誘惑は、「奇跡の誘惑」でした。悪魔は、「イエス様が神の御子 (救い主キリスト)であるならば、エルサレム神殿の頂上から飛び降り、天使が支えて助ける奇跡を起こしなさい。そうすれば、人々はイエス様を神の御子と信じるはずだ」、とイエス様を誘惑したのです。悪魔の誘惑は、この世の常識に基づく誘惑です。この世が求める救い主は、私達が神様への疑いを抱かなくて済むために、いつも奇跡を起こしてくれる神様ではないでしょうか。悪魔は、詩篇91篇11、12節のみことばを、イエス様を誘惑するために利用しています。私達は、聖書のみことばを、聖書の文脈から切り離して、自分に都合良く利用することに注意しなければなりません。
イエス様は、旧約聖書のみことばから、『主を試みてはならない』(7節)と答え、悪魔の誘惑を見破り退けました。ヘブル語の『主』ということばは、「存在する」「ある」を意味することばです。イスラエルの民は荒野での四十年、試練に苦しむ時に、「神様はいるのか、いないのか」と言って、神様の存在を疑ったのです。神様の存在への疑いは、奇跡が起こることでは解決しませんでした。神様の存在を疑うことが罪だからです。人生の試練に苦しむ時も、神様の存在を疑う罪を、神様の御前で悔い改めようではありませんか。
2.神の愛を信頼して生きる
マタイの福音書は、悪魔に代わってユダヤ教の宗教指導者達が、悪魔と同じ誘惑でイエス様を試みたことを伝えています。彼らは、「イエス様が救い主キリストであるならば、奇跡を見せろ」、とイエス様に迫ったのです。イエス様は、彼らの誘惑を退けました。イエス様は、『ただ預言者ヨナのしるしは別です』(マタイ12:40)と答えました。イエス・キリストは十字架から降りることをしませんでした。そして私達の罪を赦し、天国への道を開いてくださったのです。イエス・キリストの十字架の死と復活こそが、人類史上最大の奇跡、人類史上最愛の奇跡です。私達は、人生の試練に苦しむ時に、イエス・キリストの十字架の死と復活という、私達への神様の最愛の奇跡を謙遜に仰ぎ見ながら、神様からの奇跡(神様からの守り導き助け)があることを願い求めようではありませんか。
関連聖書箇所
◎詩篇91篇11、12節
11 主が あなたのために御使いたちに命じて あなたのすべての道で あなたを守られるからだ。
12 彼らはその両手にあなたをのせ あなたの足が石に打ち当たらないようにする。
◎申命記6章16節
16 あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である【主】を試みてはならない。
◎出エジプト記17章7節
7 それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。
◎出エジプト記3章14節
14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
◎マタイの福音書12章38節
38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。
◎マタイの福音書12章39、40節
39 しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。
40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
◎マタイの福音書27章41、42節
41 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
42 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
◎詩篇91篇2節
2 私は【主】に申し上げよう。「私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神」と。

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