<天国への分岐点 ルカの福音書23章32~43節>
高速自動車道を使う時、緊張する場面の一つが、「分岐点」です。「分岐点」を間違うと、時には、目的の方向と反対の方向の道を進むことになります。焦ると、「逆走」という大事故を起こすことになります。高速道路に「分岐点」があるように、私たちの人生にも「分岐点」があります。「人生の分岐点」で最も大切な分岐点が、『天国への分岐点』、主イエス・キリストの十字架です。キリストは十字架で自分を救わず、キリストは十字架で私たちを救う。
1.キリストは十字架で自分を救わず
イエス様がゴルゴダの丘で十字架に付けられた時に、三つのグループの人達がイエス様の十字架を取り囲んでいました。第一グループ「ユダヤ人の民衆と指導者達」、第二グループ「ローマ兵士達(異邦人)」、第三グループ「イエス様の右左で十字架に付けられた犯罪人たち」です。彼らは共通して、神のキリストなら、ユダヤ人の王なら、「自分を救え、十字架から降りて来い」とイエス様の十字架の死を嘲ったのです。彼らは共通して、自分の罪に気付かず、自分の罪に嘆き悲しまず、自分の罪を悔い改めず、イエス・キリストの十字架の死の意味を理解することができなかったのです。イエス様は十字架の上で、『父よ、彼らをお赦しください』(34節)と祈りました。父なる神様は、罪人の私たちを滅ぼすことをせず、罪のない神の御子イエス・キリストを、私たち罪人の罪の身代わりとして十字架で殺しました。キリストの十字架の死によって私たち罪人の罪は赦されたのです。イエス様は十字架の上で『彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです』(34節)と祈りました。イエス様の十字架の死は、自分にとって無関係な死、無意味な死、敗北のしるし、無力のしるし、絶望のしるしとして素通りする私たちのために、イエス様は祈っています。キリストはなぜ十字架で自分を救わなかったのか。キリストが十字架で私たちを救うためです。
2.キリストは十字架で私たちを救う
イエス様の十字架の右左で、十字架に付けられた二人の犯罪人の一人の、イエス様の十字架に対する態度が変わりました。変えられた犯罪人が、もう一人の犯罪人を戒めたことばから、彼のイエス様への信仰が分かります。①彼は神を恐れる信仰に導かれた。②彼は自分の罪の悔い改めに導かれた。③彼はイエス様が罪を犯していないことに気付いた。④彼はイエス様が天の御座につくキリストだと信じる信仰に導かれた。そして彼は、十字架に付けられているイエス様に、自分の救いを願い求めたのです。私たちは、『天国への分岐点』(主イエス・キリストの十字架の御前)に立っています。自分の罪を悔い改め、罪ある自分の救いを願い求めようではありませんか。変えられた犯罪人と同じように、『あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます』(43節)とのイエス様からの御声を聞こうではありませんか。
関連聖書箇所
◎Ⅱコリント書5章21節
21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。
◎ガラテヤ書3章13節
13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
◎箴言1章7節
7 【主】を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。