<なすべきことをしただけです ルカの福音書17章1~10節>
今朝の聖書箇所で、イエス様は私たちに「キリストのしもべの流儀(生き方)」として、キリストのしもべは、全ての働きを終えた時、天国でイエス様に、「私は取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と答えることを教えています。キリストのしもべの本分を果たすために、キリストのしもべには信仰が必要であり、キリストのしもべには喜びがあります。
1.キリストのしもべの本分を果たす
イエス様は今朝の聖書箇所で、キリストのしもべの本分(なすべきこと)について、三つのことを教えています。
(1) 罪の種を蒔かない
罪の種を蒔き、人をつまずかせる生き方をしない。私たちは神様に背く自己中心、身勝手な生き方をすることで、罪の種を蒔き、人をつまずかせます。また、外見だけの信仰のない偽善の罪が人をつまずかせます。
(2) 罪の悔い改めに導く
その人がなぜそのような罪を犯したのかを深く考えてみる。そして自分自身も同じ罪を犯すことがありうることを謙遜に主に認めながら、主の御心を求める祈りの心でその人に接し、主の御業として罪の悔い改めに導く。
(3) 何度でも罪を赦す
その人が罪を悔い改めるならば、神様から罪を赦され者として何度でも罪を赦すことが求められています。
2.キリストのしもべには信仰が必要
キリストのしもべの本分(なすべきこと)を果たすためには、キリストのしもべには信仰が必要です。イエス様の弟子達はイエス様に、『私たちの信仰を増し加えてください』(5節)と願いました。信仰の強い人間になるための信仰の増量、立派な人間になるための信仰の増量を願ったのです。しかしイエス様は、『からし種(0.5ミリの種)ほどの信仰』(6節)があれば十分であると答えました。なぜならば、神様が偉大なお方であり、不可能を可能にする、不可能なことはなにもない偉大な働きをされるお方だからです。偉大な神様、偉大な神様の働きから見れば、『からし種ほどの小さな信仰』です。しかし、偉大な神様、偉大な神様のみわざを信頼し、私たちの身を委ねる時、神様が成し遂げてくださるのです。
3.キリストのしもべには喜びがある
神の国の完成に向かう終わりの時代に、神様が全てを成し遂げられる御業の中に、キリストのしもべの本分(なすべきこと)もあります。ですから、私たちはキリストのしもべの本分を果たしても、自分を誇ることはできません。
この世での主人と奴隷の関係では、奴隷がなすべき務めを果たすことは、当然のことでした。しかし私たちの主であるイエス・キリストは、私たちに仕えてくださったのです。キリストのしもべの本分を果たし終えて、天国でイエス様に、『私は取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と答えることができるならば、これ程の身に余る幸いは他にありません。
関連聖書箇所
◎ルカの福音書1章37節
37 神にとって不可能なことは何もありません。」