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2025年2月9日東村山キリスト教会主日礼拝 説教要旨

<復活の主が共に歩む希望の人生 ルカの福音書24章13~27節>
葬儀の司式をする牧師は、御遺体を前にして、現実の死と向き合うことになります。私は牧師をしていて安堵することは、私には「聖書」と「信仰」が与えられていることです。復活の主イエスが、失望した暗い顔付きの者に、聖書から御自身を説き明かし、共に歩む。
1.失望した暗い顔付きの者に
イエス様の二人の弟子達は、暗い顔付きで、エルサレムから11キロほど離れたエマオへの道を歩いていたのです。二人は、エルサレムで起こった事実に混乱していました。その二人に、復活の主イエス様が共に歩いてくださったのです。二人は、師であるイエス様が十字架で残酷な死を遂げたショックもあって、目が閉ざされて、復活の主イエス様と気付かず、見知らぬ旅人と思ったのです。二人は、共に歩く人に、エルサレムで起こった事実とその事実に関する彼らの理解について伝えました。彼らは、イエス様を『預言者』(19節)と理解しても、救い主キリスト、神様とは理解していませんでした。彼らは、ユダヤ人指導者がイエス様を十字架で処刑した事実を認めても、イエス様が自分たちの罪の身代わりで、十字架で死なれたことを理解していませんでした。彼らはイエス様がイスラエルをローマ帝国から解放してくれる希望を抱いても、罪と死からの救いに希望を抱いていませんでした。彼らは、女の弟子達から『イエス様は生きておられる』(23節)、と「復活の知らせ」を聞いた時、信じることができませんでした。そのように、愚かな、心の鈍い、失望した暗い顔付きの弟子達と、復活の主イエス様は共に歩んでくださったのです。
2.聖書から御自身を説き明かす
復活の主イエス様は、エマオの途上で、彼らと共に歩きながら、彼らを『愚かな者たち』(25節)と言っています。彼らが、エルサレムで起こった事実を自己流に解釈している愚かさです。また彼らを『心が鈍い』(25節)と言っています。彼らが、聖書のみことばを信じて、聖書から事実を理解しようとしない心の鈍さです。復活の主イエス様は、彼らに、聖書全体から、救い主キリストの受難と栄光(死からの復活)について説き明かしたのです。私たちも、愚かな者、心の鈍い者であることを認めて、復活の主イエス様が聖書全体から御自身を説き明かされていることに、耳を傾けようではありませんか。
3.復活の主イエスが共に歩む
エマオの途上で、二人は、エルサレムで起こった事実を、聖書全体から説き明かされるイエス・キリストに焦点を当てて理解することができたのです。彼らは、エマオの家に着いた時、目が開きました。復活の主イエスが、彼らと共に歩んでくださっていたことに気付いたのです。そして、復活の主が共に歩み、聖書が説き明かされることで、彼らの心は内で燃えていたのです(32節)。
復活の主イエス様が共に歩む希望の人生を始めましょう。

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