<復活の主イエスの平安 ルカの福音書24章33~43節>
イエス・キリストの十字架の贖いの死と、死からの復活の奇跡こそが、私達の人生を真実に変え、私達に真実な平安を与える奇跡です。復活の主イエスの平安は、罪が赦された平安、死に勝利した平安、神の国に生きる平安です。
1.罪が赦された平安
二人の弟子達と、エマオの途上で、死から復活したイエス様が共に歩き始めた時、彼らは自分の罪と死に絶望し暗い顔付きでした。十字架に付けられたイエス様を裏切った罪への絶望でした。イエス様の十字架での残忍な死を目撃したことでの自分の死への絶望でした。エルサレムの隠れ家に隠れていた弟子達にも、復活の主イエス様が姿を現しました。復活の主イエス様は、『平安があなたがたにあるように』(36節)と伝えました。しかし彼らは、復活の主イエス様を「幽霊」と勘違いしたのです。彼らは自分達が犯した罪へのイエス様の呪いを恐れていたからでした。復活の主イエス様は、手と足と脇腹の傷痕を弟子達に見せました。傷痕は、イエス・キリストの十字架の死を証するものでした。復活の主イエス様は、傷痕を見せることで、十字架の身代わりの死によって、弟子達の罪を赦したことを伝えたのです。私達も神様の御前で、自分の罪を悔い改めているならば、復活の主イエス様が私達の罪を赦してくださいます。罪が赦された平安がありますように。
2.死に勝利した平安
イエス様の死からの復活は、「幽霊の復活」ではありません。実体のある復活の体での死からの復活でした。イエス様の復活の体には、次のような特徴がありました。①イエス様の地上の体の面影が残っていた。復活の主イエス様は、全くの別人となったのではありません。②復活の体はこの世の物質を通り抜けた。この世の肉眼で「見えたり」「見えなくなる」体でした。私達の目に今見えなくとも復活の主イエス様は共にいます。③復活の主イエスは食事を食べた。使徒パウロは、Ⅰコリント書15章で、イエス様の復活の体について、『神の国の初穂』『天上の体』『朽ちない栄光の体』と教えています。弟子達はイエスの復活の体を目撃した時、『不思議がった』(41節)のです。復活の事実は、彼らの理解、知恵を大きく超えていたからでした。復活の主イエス様は、私達の死に勝利したのです。死に勝利した平安がありますように。
3.神の国に生きる平安
復活の主イエス様は、弟子達が日常生活で食べるパンや魚の切れ身を食べました。弟子達の日常生活の中で、イエス様は死から復活したのです。私達の日常生活の中で、今、私達の目に見えなくとも、復活の主イエス様が共にいて、共に歩んでくださっています。私達は、復活の主イエス様と共に、日常生活の中で、すでに神の国に生きているのです。天国に向かう旅路を歩んでいるのです。神の国に生きる平安がありますように。
関連聖書箇所
◎ルカの福音書24章32節
32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
◎ヨハネの福音書20章19節
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
◎ヨハネの福音書20章20節
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
◎ルカの福音書24章31節
31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
◎Ⅰコリント書15章20節
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
◎Ⅰコリント書15章40節
40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、
◎Ⅰコリント書15章42、43節
42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、