<御国が来ますように ルカの福音書11 章1~4 節>
コロナ禍の感染対策の緩和が進む、アフターコロナの段階を、私たちは迎えています。イエス様は、その私たちに、コロナ禍からの復旧(以前の状態に戻す)ことよりも、コロナ禍からの復興(以前よりも良い状態に再生する)ことを「祈るときはこう祈りなさい」と教えています。コロナ禍からの復興の祈りは、『御国が来ますように』との祈りです。御国が来ますように、糧が与えられ、罪が赦され、試みから守られますように。
1.糧が与えられますように
マタイの福音書6 章9~13 節の主の祈りと、ルカの福音書11 章1~4 節の主の祈りは、基本的に同じ内容です。大きく二つの部分、神様に関する祈り(呼びかけ、二項目の祈り)、私たちの必要に関する祈り(三項目の祈り)から構成され
ています。主の祈りは、神様に関する祈り心で、私たちの必要に関する祈りを祈ることが重要です。主イエス様の十字架の死と復活に基づき、『父よ』(アラム語で「アバ」「おとうちゃん」)と親しく呼びかけ。『御名が聖なるもとされますように』(この世界で神様が神様とされますように)。『御国が来ますように』(この世界で神様の御支配が広く深くなりますように)。『まず神の国と神の義を求めなさい』(マタイ6 章33 節)とあるように、『御国が来ますように』と祈ることをまず求める時、神様が私たちの日々の必要を満たして下さいます。私たちが目指し祈る復興は、神様が神様とされ、神様の御支配が広く深くなり、神様が私たちの生活の必要を満たしてくださる世界の実現です。
2.罪が赦されますように
主の祈りにある神様の「御名、御国、御心」を祈る時、私たちは自分の「名(メンツ)、国(支配、影響力)、心(思い願い)」をいつも優先している自己中心な罪を示されます。特に、主の祈りの中で、『私たちも私たちに負い目のある者をみ
な赦します』と祈るたびごとに、私たちの心は辛くなります。しかし『御国が来ますように』との祈りの中心は、主イエス・キリストの十字架の贖いの死と復活による、神様との和解、人との和解です。私たちは神様に背く罪、人に犯す罪を悔い改めながら、キリストにある神様との和解、人との和解を祈り求めようではありませんか。私たちが目指し祈る復興は、私たちの人生と世界に、キリストの十字架が立ち、神様と和解し、人と和解する世界の実現です。
3.試みから守られますように『私たちを試みにあわせないでください』とは、終わりの時代の患難試練を
前にして、私たちが人間としての脆さ弱さ愚かさ貧しさを謙遜に認め、主が大能の力を働かせてくださることを謙遜に願い求める祈りです。ならば、神様は患難試練や人生の試練を通して、私たちを神の国にふさわしい者(キリストに
似た者)に変えてくださいます。そして、終わりの時代の患難試練を通して、この世界を神の国に変えてくださるのです。御国が来ますように。
関連聖書箇所
◎マタイの福音書6 章33 節
33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
◎箴言15 章16、17 節
16 わずかな物を持って【主】を恐れることは、豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。
17 野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。
◎箴言17 章1 節
1 乾いたパンが一切れあって平穏なのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。
◎ローマ書5 章3~5 節
3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
◎ローマ書8 章28 節
28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。