<天にある大きな喜び ルカの福音書15章1~10節>
私たちは「人と共感し共に喜ぶ」ことを求めます。神様が私たちに教えてくださっているのは、『天にある大きな喜び』です。天にある大きな喜びに共感し、地上で天にある大きな喜びを共に喜ぶことです。神様は一人の罪人を捜し出し、一人の罪人が罪を悔い改めるなら、大きな喜びが天にあるのです。
1.神様は一人の罪人を捜し出す
取税人と罪人がイエス様と食卓を囲み、イエス様に喜ばれ受け入れられている光景を見て、パリサイ人と律法学者は文句を言いました。パリサイ人と律法学者にとって、取税人と罪人は、喜べない不愉快な存在、目障りな存在でした。イエス様はなぜ取税人と罪人を喜んで受け入れるのか、その理由をルカ15章にある三つのたとえから説明しています。イエス様は、三つのたとえ(羊飼いのたとえ、女性のたとえ、放蕩息子のたとえ)で繰り返し強調していることは、神様が一人の罪人を捜し出す、神様の愛の熱心さです。私たちは、落とし物をして自分のものを失った時、その喪失感から必死になって失ったものを捜そうとします。それと同じように、私たちは失われた罪人であったとしても、神様のものなのです。神様は、神様のものである私たち罪人を失った喪失感から、熱心に私たち罪人を捜し出してくださるのです。神様が一人の罪人を捜し出す熱心さは、イエス・キリストの十字架の死と復活の愛の熱心さです。そして聖霊をこの世に送ってくださった神様の愛の熱心さです。
2.一人の罪人が罪を悔い改める
イエス様は、羊飼いのたとえで、『見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ』(5節)と、迷子になった羊を見つけ出した羊飼いの羊に対する愛を感動的に教えています。神様の愛、イエス・キリストの十字架と復活の愛が先立っているのです。だからこそ、私たちは神様に背き人に犯してきた罪がどれほど神様を悲しませてきたかを知り、自分の罪を悔い改めようではありませんか。イエス様は、女性のたとえで、女性がなくした一枚の銀貨を捜し出すために『明かり』(8節)を用いたと教えています。『明かり』とは、聖霊なる神様のことです。聖霊が私たちの内面を明るく照らし出してくださっています。だからこそ、私たちは罪が私たちの人生を暗くし惨めにしていることに気付き、罪を悔い改めようではありませんか。
3.大きな喜びが天にあるのです
パリサイ人と律法学者にとって、取税人と罪人は、喜べない不愉快な存在、目障りな存在でした。しかし、イエス様にとって、罪を悔い改めた一人の罪人の存在は、天にある大きな喜びの存在なのです。イエス様は『一緒に喜ぶ』(6、9節)ことを私たちに求めています。天にある大きな喜びである互いの存在を、地上で共に喜ぼうではありませんか。天にある大きな喜びを、地上で共に喜ぶために、イエス様の後の従い、イエス様の愛を伝え、祈ろうではありませんか。
関連聖書箇所
◎Ⅰヨハネの手紙4章10節
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
◎エペソ書1章17~18節
17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、・・・・・