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2023年10月22日東村山キリスト教会主日礼拝 説教要旨

<我に返る幸いな人生 ルカの福音書15章11~24節>
今朝の聖書箇所にある『我に返る』(17節)とは、「父なる神様の愛に立ち返り我に返る」ことです。父なる神様に罪を悔い改め、父なる神様の愛に立ち返り、父なる神様の祝福を受ける。

1.父なる神様に罪を悔い改める
弟息子は、父親の死を待たずに、父親から遺産相続を求めたのです。ユダヤ社会の常識に反することでしたが、父親は寛大な心で、弟息子に相続財産を分け与えたのです。弟息子は、父親のもとを離れ、遠い国へ行き、相続財産を湯水のように使い果たしてしまったのです。その地に飢饉がやって来ました。食べるにも困った放蕩息子は、ユダヤ人が嫌う豚の世話をする仕事をするようになりました。遠い国の雇い人は、放蕩息子を人間扱いしませんでした。
私たちは、放蕩息子のようでなく、成功した息子になろうとしても、父なる神様から離れて、自己中心に生きるならば、それは放蕩息子になることです。17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは、「我思う故に我あり」と言いました。デカルトの世界観は、神様を信頼するのでなく、我(自分)を信頼する世界観でした。科学技術は発展しても、人間が人間扱いされない悲劇が繰り返されています。私たちは真実な神様を知ってこそ、正しく自分自身を知ることができるのです。父なる神様に、信頼できない自分を信頼する罪、神に背く罪、人に背く罪を悔い改めようではありませんか。

2.父なる神様の愛に立ち返る
イエス様は私たちに、父なる神様の愛、神の御子イエス・キリストの愛がどれほど豊かな愛なのかを教えています。『まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけた』(20節)とあるように、神様の愛は喪失感からの愛であり、理性を超えた愛です。『かわいそうに思う』(20節)とあるように、神様の愛は、深い同情心からの愛なのです。『駆け寄った』(20節)とあるように、神様の愛は、私罪人に駆け寄る愛です。父なる神様の愛は、理性を超えた愛、深い同情心からの愛、駆け寄る愛です。私たちは、神の御子イエス・キリストの十字架の死と復活に感謝して、父なる神様の愛に立ち返ろうではありませんか。

3.父なる神様の祝福を受ける
イエス様は私たちに、父なる神様のみもとに立ち返る祝福の豊かさを教えています。『一番良い衣』(22節)とあるように、「キリストの衣」が着せられ、私たちの罪が赦され、罪がきよめられる豊かさです。『手に指輪をはめる』(22節)とあるように、「神の子どもとしての特権」が与えられる豊かさです。『足に履き物を履かせる』(22節)とあるように、「キリストの自由」が与えられる豊かです。父なる神様の祝福を受けようではありませんか。神様はあなたを、『死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つけた』(24節)と大喜びで迎え入れてくださいます。

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