<天の喜びを共に喜ぶ ルカの福音書15章11~32節>
親子関係について、世間では、「親の心子知らず、子の心親知らず」とよく言います。私たちは、神様と私たちとの関係も同じように考えてはいないでしょうか。「神様の御心を私たちは知らず、私たちの心を神様は知らない」。しかし、「放蕩息子のたとえ」でイエス様が私たちに教えていることは、そうではありません。神様の御心を私たちは求めないが、私たちの心を神様は知っている。だから、私たちは神様の御心を求め喜ぼう。
1.神様の御心を私たちは求めない
「放蕩息子のたとえ」の後半に、兄息子が登場します。兄息子は、放蕩三昧をして無一文で家に帰って来た放蕩息子の弟を父親が大喜びで迎え入れたことに、激怒したのです。優等生の兄息子は、父親の近くに暮らし、父親の言いつけを守っていても、放蕩息子の弟息子がそうであったように、父親に心を閉ざし、父親とは心が遠く離れた生活を続けてきたのです。兄息子は『怒った』(27節)ということばは、ギリシャ語で見るならば、「感情の突然の爆発ではなく、定着したままの湧き上がってくる怒りの感情を表す」ことばです。兄息子は父親に心を閉ざすことで、積年の根深い怒りが兄息子の心を支配していたのです。父親に心を閉ざすことで、兄息子は不安な存在、孤独な存在、奴隷の存在でした。そのことが兄息子の根深い怒りとなっていたのです。私たちも、優等生の兄息子のように、神様の側近くに暮らしながら、神様に心を閉ざし、神様の御心を求めない、不安な、孤独な、奴隷のような生活をしていないでしょうか。
2.私たちの心を神様は知っている
父親は、兄息子が激怒して、祝宴が開かれている家に入ろうとしないことを知って、父親自ら家の外に出て、激怒している兄息子をなだめたのです。父親は、放蕩息子の弟息子を愛した同じ愛、理性を超えた愛、かわいそうに思う愛、駆け寄る愛で、兄息子をも愛しているのです。父親の外に出てなだめた兄息子への愛は、イエス・キリストの十字架の死と復活の愛です。私たちは、神様のそば近くに暮らしながら、神様に心を閉ざし、神様の愛に冷めた心の罪を悔い改めようではありませんか。神様の愛、イエス・キリストの十字架の死と復活に私たちの心を向けようではありませんか。
3.私たちは神様の御心を求め喜ぼう
父親は兄息子に『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる』(31節)と父の心を教えたのです。父なる神様はいつも私たちと共にいてくださるからこそ、私たちは不安な存在でなく、確かな存在なのです。孤独な存在でなく、神様と交わり人と交わる存在なのです。さらに父親は兄息子に、『私のものは全部おまえのものだ』(31節)と父の心を教えたのです。神様の御心を謙遜に求め従う者は、奴隷のように喜びなく生きるのでなく、神様のために、神様と共に、仕事をし奉仕をし生活をし、人生を喜びの中に生きることができるのです。