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2024年3月24日東村山キリスト教会主日礼拝 説教要旨

<神の訪れの時に ルカの福音書19章41~48節>
救い主キリスト(メシア)がこの世界に来て下さるという『神の訪れの時』を、神様は旧約聖書を通して私たち人類に約束し、救い主キリストの「しるし」についても教えて下さっていました。しかし私たち人類は、救い主キリストについての妄想を膨らませ、神の訪れの時を認めませんでした。神の訪れの時に、平和に向かう道を、拒絶する者にさばきが、受け入れる者に祝福がある。

1.平和に向かう道を
イエス様は、大勢の弟子達の神様への賛美と感謝の大歓声の中を通して、子ロバの背に乗って、エルサレムに入城しました。その直後に、イエス様はエルサレムを御覧になり泣かれたのです。エルサレムには、「平和の都」という意味があります。「平和の都」であるエルサレムが、『平和に向かう道を』知らないことに、イエス様は涙を流されたのです。エルサレムに暮らす人々は、「力による平和」を実現してくれる、旧約聖書のダビデ王のような、政治的軍事的な救い主キリストを待ち望んでいました。その彼らの目には、真実な平和に向かう道は隠されていたのです。「力による平和」は、暴力の根っこにある「恐怖心」を解決できず悪化させます。神の御子イエス・キリストが、この世界に来て下さった『神の訪れの時に』、エルサレムでの受難の一週間の「イバラの道」と通ることで、私たちが神様と和解する平和、私たちの罪が赦される平安という、真実な『平和に向かう道』を切り開いて下さったのです。

2.拒絶する者にさばき
イエス様は、エルサレムに暮らす人々が、平和に向かう道を、拒絶していることに、涙を流されました。私たちが、当然のことのように、罪悪感なく、「人生を私物化する罪」(自分の人生を自分のものとする罪)を犯していることに、イエス様は涙を流されたのです。私たちが、自己中心に生き、自己実現するための救い主キリストを求める時、私たちは平和に向かう道が私たちの目から隠され、神の訪れの時を私たちは知ることができません。イエス様はエルサレム神殿の宮きよめをしました。人生を私物化し、自分のために神様を利用し、エルサレム神殿を『強盗の巣』にしている者達を追い出されたのです。そしてイエス様は、エルサレムとエルサレム神殿に下るさばきを預言されました。そのことは紀元70年に現実となりました。イエス・キリストが再臨される神の訪れの時に、平和に向かう道を、拒絶する者にさばきが下ります。

3.受け入れる者に祝福
イエス様がエルサレム神殿の宮きよめをしたのは、エルサレム神殿を『強盗の巣』から『祈りの家』に回復するためでした。『わたしの家』(神の家)とは、イエス・キリスト御自身のことです。キリストの十字架の贖いの死と復活という『平和に向かう道』を通して、『祈りの家』で、熱心に祈り、熱心にみことばを聞く祝福を教えて頂きましょう。

関連聖書箇所
◎Ⅱコリント書5章18~21節
18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。
20・・・・・神と和解させていただきなさい。
21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

◎イザヤ書56章7,8節
7 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。
8 ──イスラエルの散らされた者たちを集める方、【神】である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」

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