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2024年3月31日東村山キリスト教会イースター礼拝 説教要旨

<見ないで信じる人の幸い ヨハネの福音書20章19~31節>
死から復活された復活の主イエス様が、疑い深いトマスに、『見ないで信じる人たちは幸いです』(29節)と教えました。「見ないで信じる人の幸い」とは、「見ないで、聖書のみことばから復活の主イエス様を信じる人の幸い」です。見て信じる人にならないで、見ないで信じる人、みことばを信じる人になる。

1.見て信じる人にならない
イエス様の残った十一人の弟子達は、ユダヤ人を恐れ、扉に鍵をかけた隠れ家に隠れていました。トマスが不在の時に、隠れ家に、死から復活されたイエス様が復活の姿を現して下さいました。イエス様の死からの復活は、地上の肉体が息を吹き返す「蘇生」ではありません。『天上のからだ』『朽ちない栄光のからだ』『御霊のからだ』『神の国の初穂としてのからだ』での復活です。復活の主イエス様を見た十人の弟子達は、喜びの知らせを、トマスに伝えました。トマスは、弟子達のことばを信じず、復活の主イエス様を見て、十字架で出来た傷に触れることを願ったのです。トマスの疑い深さは、人生の絶望、孤独、罪責感からの疑い深さでした。トマスは人生の絶望、孤独、罪責感から解放されるために、復活の主イエス様を見て、その傷に触れることを願ったのです。イエス様は「見て信じる信仰でなく、見ないで信じる信仰が幸いである」と教えています。「見て信じる信仰」、神様の奇跡の体験、神秘的な神体験は、人生の絶望、孤独、罪責感から人を解放することはできないのです。

2.見ないで信じる人になる
一週間後、トマスも仲間の弟子達と一緒に隠れ家に居た時に、復活の主イエス様は、再び復活の姿を現して下さいました。弟子達には復活の主の姿が見えなかった時も、復活の主イエス様は、トマスの深い傷を知り、その傷に愛の御手を差し伸べ、癒しの御手で触れて下さっていたのです。復活の主イエス様はトマスに、イエス様の傷痕に触れることを許していますが、トマスは復活の主イエス様に『私の主、私の神よ』(28節)と信仰告白し、触れようとはしませんでした。イエス様はトマスに忠告(29節)した時、トマスは心の痛みが伴う不信の罪の悔い改めから、見ないで信じる者の幸いを悟ったのです。イエス様のトマスへの愛も、永遠のいのちも、罪の赦しも、復活の主イエス様も、この世界で最も大切なこと、永遠に価値あることは、人の目には見えないのです。

3.みことばを信じる人になる
「見ないで信じる」と言っても、何の根拠もなく、当てずっぽうに、盲目的に信じるのではありません。私たちは、イエス様が死から復活された歴史的な事実を書き記した聖書のみことばを信じるのです。今は目に見えない復活の主イエス様が、聖書のみことばから、『信じない者にならないで、信じる者になりなさい』(27節)、と語っています。復活の主イエス様に、『私の主、私の神よ』(28節)と応えようではありませんか。

関連聖書箇所
◎ヨハネの福音書11章16節
16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」

◎Ⅱコリント書4章18節
18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

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