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2023年3月5日 東村山キリスト教会主日礼拝 説教要旨

<天に名が記された喜び ルカの福音書 10 章 13~24 節>

「虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す」と言われるように、私たちは「後生に名を残したい」「歴史に名を残したい」「人々の記憶に残りたい」と願います。しかしイエス様が私たちに教えていることは、地上で名を残す喜びでなく、『天に名が記された喜び』です。天に名が記された喜びとは、悪魔が天から地に落ちた喜び、幼子である者に現された喜び、願い求めたことを見た喜びです。

1.悪魔が天から地に落ちた喜び
72 人の弟子達は、イエス様の御前で喜びに満ちた宣教報告をしました。弟子達は、主イエスの御名によって悪魔でさえ服従したことを喜びました。しかしイエス様は、弟子達の名が天に記されていることを喜べと教えたのです。天に名が記されているとは、天国に入る予約が出来ていることです。そして、神の国の民として地上生活をすることが期待されているのです。イエス様は弟子達の宣教報告を聞きながら、天に起こっている光景を見ています。それは、サタン(悪魔)が稲妻のように一瞬の内に、天から地に落ち、神の国が勝利した光景です。神の御子イエス・キリストの降臨、十字架の死、死からの復活によって、悪魔は天の権威の座から落ちたのです。悪魔は致命傷を負いながらも、最後の悪あがきをします。そして遂に悪魔は滅びます。悪魔は天から地に落ち、私たちの名が天に記されていることを大いに喜ぼうではありませんか。

2.幼子である者に現された喜び
天に名が記されたのは、この世の知恵者や賢い者でなく、幼子である者達でした。『幼子』とはこの世の知恵や賢さがないという意味でなく、幼子のように素直に自分の罪を認め悔い改める者達のことです。『十字架のことば』(I
コリント 1:18)は、この世の知恵者や賢い者にとっては知性で理解できない愚かなことばです。しかし十字架のことばは、幼子のように罪を悔い改める者には、自分の罪を赦す神の力です。自分の罪を素直に認め悔い改めた幼子である者達こそが、天に名が記された者達として、神様を真実に知り、神様からの知恵と豊かさを与えられるのです。私たち幼子に現される神様からの知恵と豊かさを、大いに喜ぼうではありませんか。

3.願い求めていたことを見た喜び
旧約聖書の預言者達や王達は、イエス様の弟子達が見て聞いていることを、見たい、聞きたいと切実に願い求めたのです。しかし彼らは願い求めたものを、見ることも聞くこともできませんでした。彼らが切実に願い求めたこと
は、まさに、イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪が赦され、天に名が記されることでした。私たち人類が真実に願い求めなければならなことは、「後生に名を残す」ことでも、「歴史に名を残す」ことでも、「人々の記憶に残る」ことでもありません。『天に名が記される』ことなのです。

関連聖書箇所
◎ヨハネの黙示録 12 章 9 節
9 こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

◎ヨハネの黙示録 20 章 10 節
10 彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。

◎ローマ書 8 章 37~39 節
37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

◎Iコリント書 1 章 18 節
18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。

◎Iペテロ書 1 章 10~12 節
10 この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。
11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。

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