<終わりの時代に悔い改めの実を結ぶ ルカの福音書13章1~9節>
自然災害は、被災した者と、被災しなかった者とに、私たちを分けます。因果応報では、被災した人は、罪の罰として被災したと考える一方で、被災しなかった人は、罪を犯さない正しい生活をしていたから、被災しなかったと考えます。イエス様が終わりの時代に、私たちに期待しているのは、因果応報から自己正当化せず、自分の罪を悔い改め、悔い改めの実を結ぶことです。
1.因果応報から自己正当化せず
イエス様に、その当時ガリラヤで起こったセンセーショナルな事件(1節)を伝える者たちがいました。彼らは、因果応報から、ガリラヤ人たちが悲惨な死を遂げたのは、罪の罰であり、何らかの重い罪を犯したからだと考えたのです。そして、因果応報から、自分達がそのような事件に巻き込まれなかったのは、自分達が罪を犯さず、正しい生活をしている証拠だと考えたのです。イエス様は、エルサレムのシロアムの塔の崩落による死亡事故 (4節)からも同じように、因果応報から被災した人は罪の罰で被災したと考え、被災しなかった人は、罪を犯さない正しい生活をしていたから被災を免れたと考えることを戒めています。イエス様は、私たちが因果応報から罪を興味半分に詮索することや、因果応報から自己正当化することを戒めています。
2.自分の罪を悔い改める
イエス様は、私たちが被災した、被災しなかったことに関わらず、私たちは皆等しく、今の時代に起こっている、終わりの時代の患難試練、人生の試練から、自分の罪を悔い改めることを教えています。『悔い改める』(3,6節)ということばは、ただ罪を犯したことを後悔する、反省するという意味だけでなく、神様に背き、神様と無関係に生きてきた人生の惨めさ、貧しさ、空しさに気付き、人生の生きる方向を180度変えて、『神様に立ち返る』ことを意味することばです。イエス様は、自分の罪を悔い改めることを、『我に返る』(ルカ15:17)と教えています。神様に立ち返ることこそが、真実な我に返ることであり、神様のみもとで生きる人間本来の生き方に立ち返ることです。
3.悔い改めの実を結ぶ
イエス様は、罪の悔い改めの実を結ぶことを、ぶどう園に植えたいちじくの木のたとえから教えています。ぶどう園の主人は、ぶどう園の肥沃な土地に、いちじくの木を植えました。しかし、三年間一度も、実を結ばず、主人はぶどう園の番人に、切り倒すことを命じました。番人は、主人に一年の猶予を与えて欲しいと懇願しました。そして番人は自分で溝を掘り、『肥料(肥やし)』をやりました。番人とはイエス様のことです。イエス様は私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、私たちが罪の悔い改めの実を結ぶための肥やしとなってくださったのです。だからこそ、終わりの時代に、残された人生の時間に、神様に喜ばれる、罪の悔い改めの実を結ぼうではありませんか。
関連聖書箇所
◎ローマ書8章19,20節
19 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
◎ルカの福音書15章17,18節
17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。