<死んでも生きる永遠のいのち ヨハネの福音書11章21~27節>
「新型コロナウイルス」「コロナ禍」ということばを、毎日のように聞いた三年間でした。この三年間、自分が病気になること、死ぬことについて考えた人もいたのではないでしょうか。自分が死んだらどうしよう。自分が死んだら、その先、どこに行ってしまうのだろう。イエス様が、この世に来てくださったのは、私たちの死と罪に向き合い、戦い、勝利するためでした。
ベタニアの村にマルタ、マリヤ、ラザロという兄弟姉妹が暮らしていました。ラザロが重い病気になりました。マルタとマリヤは、イエス様がなおしてくださることを期待しました。しかし、イエス様の到着は遅れ、ラザロは死んでしまいました。ベタニアに着いたイエス様は、マルタに『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きる』(25節)と教えました。ラザロが死んで四日がたっていたのですが、イエス様はラザロの墓の前で、父なる神様に感謝した後で、「ラザロよ、墓から出てきなさい」と大声で叫びました。ラザロは、死からよみがえって、墓から出て来たのです。ラザロが死からよみがえったことを、マルタとマリヤ、ベタニアの村の人たちが喜びました。イエス様が教えてくださった、『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きる』(25節)のみことばから、『死んでも生きる永遠のいのち』について、三つの点から学ぶことができます。
1.イエス様はよみがえりです
イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださいました。そして、三日目に死から復活してくださいました。私たちの罪と死に完全に勝利したイエス様は、天国のからだ、二度と腐らない永遠のからだ、栄光のからだで死から復活してくださったのです。イエス様は、このことをここでは、『わたしはよみがえりです』と教えてくださっています。
2.イエス様はいのちです
神様であるイエス様に、死んでも生きる永遠のいのちがあります。また、神様であるイエス様が、私たち人間そして全ての生き物の生きること、死ぬことを決めることができるのです。すでに死んでいたラザロが、この世のいのちを吹き返したのは、イエス様が、ラザロがこの世で生きることを願ったからでした。イエス様が私たちに生きることを願っている間、私たちはこの世のいのちを大切にしながら、イエス様のためにこの世で生きなければなりません。
3.信じる者は死んでも生きる
何かができる人、何かができた人が『死んでも生きる』のではありません。『わたしを信じる者が死んでも生きる』のです。イエス様を信じるなら、私たちは死んでも生きる永遠のいのちが与えられています。イエス様と同じ天国のからだ、永遠のからだ、栄光のからだが与えられ、天国でイエス様とともに永遠に暮らすことができるのです。
子ども祝福のことば
神様はそれぞれの家庭と教会に、子どもたちを与えてくださいました。子どもは神様から与えられた賜物、祝福、私達の喜びです。主イエス様は『子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです』(マタイ19章14節)と言われ、どんな小さな幼子もしりぞけられませんでした。天国を地上にあらわす主日礼拝に、イエス様は子供たちも招いています。どんな小さな子供たちも主を礼拝し、主から祝福の恵みを受けることができます。教会にとって子供たちは大切な求道者です。
主日礼拝は『御霊と真理による礼拝』(ヨハネ3章24節)です。聖霊が豊かに神の御業をなし、イエス・キリストの十字架による罪の赦しと、永遠のいのちへの希望のある、御霊と真理による礼拝の中で、子どもたちも主の御心にかなった真の礼拝者、信仰者へと成長すると私達は信じます。
子どもたちが主日礼拝に出席し、主イエス・キリストへの信仰を言い表し、キリストのみからだである教会の枝となり、主のみことばに聞き従う者となることが、子どもたち一人一人の生涯にわたる祝福のもといです。主日礼拝の中で、私達は愛と忍耐と寛容さを持って、子ども達一人一人の信仰の成長を見守りましょう。
子どもたちも主日礼拝に出席し、主に愛されていることを知り、主を心から礼拝しましょう。
子どもたちが主への信仰を告白し、主を礼拝できるようになるために、子どもたちのために祈り、子どもたちを育て導く責任が、親と教会にあります。