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2023年9月17日東村山キリスト教会伝道礼拝 説教要旨

<この宝を土の器に入れている Ⅱコリント書4章7~12節>
今年の9月に召天された高齢の兄弟は、19歳の時に、福井大震災(1948年6月28日)で被災され、瀕死の重傷を負いました。福井市の教会の塀に掲げられていた『われら四方より患難を受くれども窮せず、為(せ)ん方つくれども希望を失わず』(文語訳聖書、Ⅱコリント書4:8)の聖書のことばが、兄弟をイエス・キリストへの信仰に導きました。私たちは四方八方から苦しめられても、なぜ窮しないのか。その秘訣は、『この宝を土の器に入れている』ことにあります。キリストを土の器に入れているので、四方八方から苦しめられても窮せず、いのちはあなたがたの内に働くのです。

1.キリストを土の器に入れている
聖書は、私たち人間は『土の器』(7節)であると教えています。私たち人間は神様が『土』で造った存在ですが、神様に背く罪を犯したことで、土に帰る空しい存在となりました。また、土の器 (陶器)は、壊れやすい、脆い、弱い存在であることを意味しています。しかし、土の器(陶器)は偶然に出来たものではありません。その存在は、それを造った陶器師(創造主)が存在することを意味しているのです。陶器師(創造主)は、土の器 (私たち人間)を尊い目的のために造ったのです。陶器師(創造主)を知る時、土の器 (私たち人間)は尊い目的のために用いられます。しかし陶器師(創造主)を認めないならば、土の器 (私たち人間)は空しい存在となります。土の器が『この宝』(イエス・キリスト)を入れる時、土の器は尊い目的のために用いられます。私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、三日目に死から復活されたイエス・キリストを信じ受け入れようではありませんか。私たちは、壊れやすい、脆い、弱い土の器に過ぎません。しかし、『この宝』を入れた土の器にして頂きましょう。

2.四方八方から苦しめられても窮せず
私たちが人生に願うことは、順風満帆な人生、思い悩むことのない人生です。そして人生の試練は避けたいと思います。しかし、人生の試練を通して、私たちは自分が土の器に過ぎないことを思い知らされます。土の器の宝の尊さに気付かされます。土の器の宝であるイエス・キリストから、測り知れない神の力が現れるので、私たちは、四方八方から苦しめられても窮することがありません。途方に暮れますが、行き詰まることがありません。迫害されますが、見捨てられません。倒されますが、滅びることがありません。

3.いのちはあなたがたの内に働く
パウロは、度重なる試練に苦しみ、自分の死を日々覚悟し、イエス・キリストの十字架の死と復活を仰ぎ見ることで、死ぬべきパウロの肉体に、イエス・キリストの永遠のいのちが働いていることを確信することができたのです。土の器の宝であるイエス・キリストの永遠のいのちの輝きが、土の器に過ぎない私たちから輝き出ることに期待しようではありませんか。

関連聖書箇所
◎創世記2章7節
7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

◎創世記3章19節
19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」

◎ローマ書9章21節
21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。

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