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2023年7月16日東村山キリスト教会主日礼拝 説教要旨

<心に安らぎを得るために マタイの福音書11章25~30節>
教会で良く使ってきた「リトリート」(修養、退修)ということばが、今、一般社会でも注目を集めるようになりました。「日常生活から一度、退いて、非日常的なリゾート地で、日頃の心身の疲れを取りたい」という切実な願いを、私たちだれしもが持っているのではないでしょうか。心の安らぎを得るために、イエス様の招きに応え、イエス様のくびきを負い、イエス様から人生を学ぶ。

1.イエス様の招きに応える
イエス様は、28~30節までのわずか3節において、『わたし』ということばを七度繰り返すことで、強烈な自己主張をしています。世間一般で言う「リトリート」(修養、退修)は、「自分自身に向き合う」ことですが、イエス様は私たちに、強烈な自己主張をすることで、イエス様に向き合い、私たち自身に向き合うことを求めています。イエス様が招いているのは、この世の成功者でも、権力者でも、その道の第一人者でもありません。イエス様は、『すべての疲れた人、重荷を負っている人』(28節)を招いています。私たちだれにも、イエス様のみもとに行く資格があります。イエス様は、『正しい人を招くためでなく、罪人を招くために』(マルコ2:17)この世に来てくださったのです。私たちは、イエス様の招きに応えて、心に安らぎを得ようではありませんか。

2.イエス様のくびきを負う
『くびき』(29節)とは、牛や馬の首につける木で作った首輪でした。『くびき』は、牛や馬が仕事をするために、無くてはならない、必需品でした。牛や馬は首に『くびき』を着けることで、牛や馬の体を傷付けず、力まずに、軽やかに、荷車を引いたり、スキを引いたりすることができたのです。イエス様は、『わたしのくびき』と言われ、イエス様御自身が『くびき』だと教えています。イエス様が私たちの『くびき』になって下さるとは、イエス様が私たちと共にいてくださることです。『わたしのくびきは負いやすい(心地よい)』(30節)とあるように、イエス様が共にいてくださることは私たちにとって心地よいのです。『わたしの荷は軽い』(30節)とあるように、イエス様が共にいてくださることで、私たちの人生の重荷は、キリストの栄光を現す重荷となり、私たちは、キリストの重荷を軽やかに運ぶことができるようになります。
『わたしのくびきを負う』(29節)とは、イエス・キリストの十字架の身代わりの死と復活を信じ受けることです。ならば、たましいの奥底からの安らぎを得ることができます。

3.イエス様から人生を学ぶ
たましいの牧者であり監督者、イエス様のみもとに戻った生活こそが、心に安らぎを得た生活です。主日礼拝で、日々の生活で、イエス様の招きに応え、イエス様のくびきを負い、イエス様から人生を学ぼうではありませんか。霊的な活力を与えられた、心に安らぎを得た生活を始めようではありませんか。

関連聖書箇所
◎マルコの福音書2章17節
17これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

◎第一ペテロ書2章24、25節
24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
25 あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

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