<生きている者の神 ルカの福音書20章27~40節>
ゴールデンウィーク、新緑を満喫しながら、私たちは「生きている」と実感できるかもしれません。しかし休日が終わり、日常生活に戻ることで、「生きている」という実感が薄れていきます。私たちは真実に「生きている」と言える原点に立ち戻りたいと思います。神は死んだ者の神でなく、生きている者の神です。神にあって全ての者は生きるのです。
1.神は死んだ者の神でない
ユダヤ教の一派であった「サドカイ人」は、大祭司を務め、ユダヤ議会の多数派を占める、ユダヤ社会のエリート階級でした。しかし彼らは、信仰心を失い、死者の復活を否定し、天国の存在を否定していたのです。彼らは、モーセ五書のみを信じ、聖書をこの世の価値観からこの世の論理で理解していたのです。サドカイ人は、死者の復活を否定する彼らの主張を、イエス様に伝えることで、イエス様を打ち負かし、イエス様への民衆の支持を削ぎ落とそうとしたのです。モーセが教えた「レビラト婚」(28節、長男に子どもがなく死んだ場合、未亡人は次男と結婚する)から、子どもが与えられず七人の兄弟と結婚することになった女性の場合、天国でその女性は七人の夫がいることになります。そんなことはありえず、死者の復活はなく、天国もないとサドカイ人は主張したのです。サドカイ人の議論は「退屈な議論」「退屈な話」です。その原因は、この世の原理原則で天国を考えていたからです。そして何よりも、彼らは、神様との生きた交わりを失っていたからです。
2.神は生きている者の神です
サドカイ人はこの世の原理原則で天国を考え、この世での結婚関係が天国でも続くと考えていました。しかしイエス様は、この世の原理原則が天国で通用しないことを教え、サドカイ人に反論しました。イエス様が教えた天国の特徴を三つの点から見ることができます。①天国には結婚関係がない(35、36節)天国で人は永遠に生きることで子孫を残す必要がない ②天国には神様が認めたふさわしい者が入る(35節) 天国には全ての者が入るのでなく、神様との生きた交わりが与えれた『生きている者』が入ることができる。③天国では栄光に輝く復活の体が与えられる(36節) イエス様と同じ栄光に輝く復活の体が与えられ、御使いのように、永遠に神様を礼拝しお仕えするのです。
神は、神様との生きた交わりが与えられた『生きている者の神』です。
3.神にあって全ての者は生きる
モーセ自身が「主を、(今も生きている)アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ぶことで、死者の復活を明らかにしています。『神にあって全ての者は生きるからです』(38節)。イエス様は、『神にあって全ての者が生きる』ことを願っています。イエス・キリストの十字架の贖いの死と復活を仰ぎ見て、「私は生きている」と感動し感謝して言おうではありませんか。
関連聖書箇所
◎申命記25章5節
5 兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
◎出エジプト記3章6節
6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。