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2024年5月12日東村山キリスト教会こども祝福礼拝式 説教要旨

<こどものように神の国を受け入れる ルカの福音書22章31~34、61~62節>
赤ちゃんにとって、泣くことが仕事、泣くことはとても大切です。こどもも大人も泣くことがあります。イエス様の弟子のペテロも、『激しく泣いた』(62節)です。イエス様は、ペテロの涙から、私たちに、『こどものように神の国を受け入れる』ことを教えています。
強がる人にならず、試みられ頼る人に、罪を悔い改める人になる。

1.強がる人にならない
イエス様は、まえもってイエス様の弟子達に、イエス様が捕らえられる時、弟子達がイエス様を見捨てて逃げ出すことを伝えました。ペテロは恐かったのですが、強がって、「私は、決してイエス様から離れません」と答えました。イエス様はペテロを愛する愛のことばとして、イエス様がペテロの信仰のために祈ったこと、ペテロが立ち直ったならば、弟子達を力づけるように伝えました。なぜペテロは強がったのでしょうか。ペテロは自分の弱さを、仲間に、イエス様に見せたくなかったからです。そしてペテロは自分の弱さを自分で見たくなかったからです。私たちは成長し大人になることは、自分の強さを人に見せ、自分の弱さを人から隠すことができるようになることだと思います。しかしイエス様は『こどものように神の国を受け入れなさい』と教えています。私たちは、こどものように、自分の弱さを知って、弱い自分のままでイエス様の御前に出ることのできる人になりましょう。

2.試みられ頼る人になる
イエス様がまえもって伝えていた通りに、イエス様は捕らえられました。ペテロにとって大きな試みでした。そして、ペテロは大祭司の中庭で、三度イエス様の弟子であることが問われ、イエス様の弟子であることが試みられたのです。ペテロは試みられて、逃げ出し、「イエス様の弟子でない」と答え、イエス様を裏切りました。イエス様も試みられましたが、捕らえられた時も堂々とされていました。十字架の死にも耐えられました。なぜならば、イエス様はゲツセマネの園で、父なる神様の御心を祈り求め、御心に従い、父なる神様に頼ることができたからです。こどもは試みられた時、泣いて助けを求めます。試みられる者の近くに、神様はいます。私たちもこどものように、試みられた時に、神様の御心を祈り求め従い、神様に頼る人になりましょう。

3.罪を悔い改める人になる
イエス様は、イエス様を裏切ったペテロを、変わることのない愛の眼差しで見つめていました。ペテロは、イエス様の愛の眼差しと愛のことばを思い出して、イエス様を裏切った罪を悔い改め、激しく泣いたのです。私たちの罪の身代わりとなって、イエス・キリストは十字架で死に、三日目に死から復活し私たちの罪を赦して下さっています。泣きじゃくるこどものように、素直な心で、罪を悔い改める人となりましょう。

●こども祝福のことば
神様はそれぞれの家庭と教会に、こどもたちを与えてくださいました。
こどもは神様から与えられた賜物、祝福、私たちの喜びです。主イエス様は『こどもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです』(マタイ19章14節)と言われ、どんな小さな幼子も、イエス様の御前から、しりぞけられませんでした。天国を地上にあらわす主日礼拝に、イエス様はこどもたちも招いています。どんな小さなこどもであっても、主を礼拝し、主から祝福の恵みを受けることができます。教会にとってこどたちは大切な求道者であり宝です。
主日礼拝は『御霊と真理による礼拝』(ヨハネ3章24節)です。聖霊が豊かに神の御業をなし、イエス・キリストの十字架による罪の赦しと、永遠のいのちへの希望のある、御霊と真理による礼拝の中で、こどもたちも主の御心にかなった真の礼拝者、真の信仰者へと成長すると私たちは信じます。
こどもたちが主日礼拝に出席し、主イエス・キリストへの信仰を告白し、キリストのみからだである教会の枝となり、主のみことばに聞き従う者となることが、こどもたち一人一人の生涯にわたる祝福のもといです。
主日礼拝の中で、私たちは愛と忍耐と寛容さを持って、こどもたち一人一人の信仰の成長を見守りましょう。
こどもたちも主日礼拝に出席し、主に愛されていることを知り、主を心から礼拝しましょう。
こどもたちが主への信仰を告白し、主を礼拝できるようになるために、こどもたちのために祈り、こどもたちを育て導く責任が親と教会にあります。

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