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2024年10月20日東村山キリスト教会主日礼拝 説教要旨

<十字架を負う祝福された人生 ルカの福音書23章26~31節>
物事は、うまくいかなくとも、実際に自分でやってみることが大切です。実際に自分で行ったことが、結局のところ、自分の身に付くのです。面白さが少しずつ分かってくるのです。イエス・キリストへの信仰も同じです。実際に、「キリストの十字架を背負う」ことが大切です。
十字架を負わない悲惨な人生でなく、十字架を負う祝福された人生。
1.十字架を負わない悲惨な人生
今朝の聖書箇所は、『ヴィア・ドロローサ』(ラテン語:悲しみの道)と言われる場面です。無罪のイエス様に、十字架による死刑判決が下されました。金曜日の朝、イエス様は衰弱していました。イエス様が処刑場までの途中で死ぬことを危惧したローマ兵達は、群衆の中から、クレネ人シモンを捕らえ、無理やりに十字架を運ばせたのです。そしてその後を群衆と嘆き悲しむ女性達が付いて歩きました。イエス様は、イエス様に同情して嘆き悲しむ女性達に、『わたしのために泣いてはいけません』(28節)、『自分自身と自分の子どもたちのために泣きなさい』(28節)と教えました。イエス様は父なる神様の御心に、自由に自ら従って、人類の罪の身代わりに十字架で死のうとしているから、イエス様のために泣く必要はないのです。しかし、嘆き悲しむ女達もまた、自分が犯した罪が、イエス様を十字架に付けて殺そうとしていることに気付き、自分の罪に悲しみ、自分の罪を悔い改めることを、イエス様は求めたのです。私たちが、「イエス様、おかわいそうに」と言いながら、自分の罪に気付かず、悲しまず、悔い改めず、十字架を負わない人生は、神様の厳しいさばきに苦しむ悲惨な結末となるからです。
2.十字架を負う祝福された人生
クレネ人シモンはイエス様の十字架を無理やりに背負わされたことで、イエス様の十字架を背負うことになりました。並行記事(マルコ15:21、22)から、クレネ人シモンの二人の息子は、キリスト者となったことが分かります。息子の一人(ルフォス)はローマ教会で重んじられ、パウロとクレネ人シモンの家族は親しい関係にあったことが分かります(ローマ書16:13)。このことから、シモンは後に、イエス・キリストを信じる信仰に導かれたと考えるのが自然です。シモンがイエス様の十字架を背負ったのは処刑場まででした。しかしシモンの心に、「罪のないイエス様がなぜ十字架で殺されたのか」、十字架の横木のように重い疑問として残り続けたでしょう。シモンは自分の罪に気付き、悲しみ、悔い改め、イエス様の十字架の死が罪の身代わりの死であったことを信じ受け入れたのです。人生の試練は、神様が私たちに負わせた十字架です。負わされた十字架を通して、神様は私たちの心の扉を叩いています。心を開いて、イエス・キリストを心の王座にお迎えしましょう。十字架を負わない悲惨な人生でなく、十字架を負う祝福された人生を始めましょう。
関連聖書箇所
◎マタイの福音書16章24節
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

◎マルコの福音書15章21、22節
21 兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。
22 彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。

◎ローマ書16章13節
13 主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく。

◎ヨハネの黙示録3章19、20節
19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。
20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

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