お知らせ

2023年3月12日 東村山キリスト教会主日礼拝 説教要旨

<神の国の愛の実践 ルカの福音書10 章25~37 節>

イエス・キリストの再臨を待ち望む終わりの時代について、イエス様は『不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます』(マタイ24 章12 節)と教えています。この世の愛が冷えていく時代に、神の国の愛を実践することを、イエス
様は「良きサマリア人のたとえ」で教えています。『神の国の愛の実践』とは、自己正当化する愛でなく、はらわたを痛める同情心で、イエス様に導かれ隣人となることです。

1.自己正当化する愛でなく
イエス様は、「良きサマリア人のたとえ」で、天に名が記された者が幼子のように、神の国の愛を地上で実践することを教えています。律法の専門家は、自己正当化するために「隣人の範囲」をイエス様に聞きました。イエス様は、自己正当化する罪を示すために、「良きサマリア人のたとえ」を教えられたのです。たとえに登場するユダヤ人の祭司とレビ人は、それぞれ、強盗に襲われ半殺しにあった人(ユダヤ人)を見て見ぬ振りをして反対側を通り過ぎて行き
ました。自分の仕事や自分の計画を最優先し自己正当化するために、死にかけている同胞を「隣人の範囲」から外したのです。私たちが「良きサマリア人のたとえ」を読んで、自己正当化することを最優先する自分の冷淡な罪に気付
かされ、心を痛めるならば、このたとえの最も正しい読み方です。

2.はらわたを痛める同情心で
イエス様は、「良きサマリア人のたとえ」でサマリア人を登場させることで、律法の専門家が考える「隣人の範囲」の常識を覆したのです。サマリア人とユダヤ人とは民族的な敵対関係にありました。しかし良きサマリア人は、敵
対関係にある倒れ死にかけているユダヤ人を助け介抱しました。『かわいそうに思った』(33 節)からでした。『かわいそうに思う』は、ギリシャ語を直訳すれば、『内臓が動く』『はらわたを痛める』と言うことばです。そしてこのことばは、神様である主イエス様だけに使われていることばです。イエス様は御自身を「良きサマリア人」にたとえいるのです。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰によって、自己正当化することを最優先する私たちの冷淡な心を、はらわたを痛める深い同情心に変えて頂こうではありませんか。

3.イエス様に導かれ隣人になる
イエス様が律法の専門家に教えたのは、「隣人の範囲」ではありませんでした。『強盗に襲われた人の隣人になる』(36 節)でした。イエス様の後に、幼子のように謙遜に従い、イエス様が私たちを導くところで、イエス様が私たち
を導く人の隣人に私たちがなることを、イエス様は私たちに求めているのです。イエス様に導かれ隣人になることは、私たちが『かわいそうに思う』(はらわたを痛める深い同情心)という真実な人としての心に回復することです。
この世の愛が冷める時代に、神の国の愛を実践しようではありませんか。

関連聖書箇所
◎マタイの福音書24 章12,13 節
12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。
13 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

◎ローマ書5 章8 節
8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

関連記事