<見ないで信じる人の幸い ヨハネの福音書20章19~31節>
私達人間にとって最も大切なものは、「目に見えるものでなく」、「目に見えないもの」です。「家族への愛情」も、聖書が伝える「神の愛」も「永遠のいのち」も「罪の赦し」も「天国」も、私達の目には見えないのです。見て信じる人でなく、見ないで信じる人、みことばで信じる人が幸いです。
1.見て信じる人でなく
復活の主イエス様は、私達の罪の身代わりに十字架で死に、私達の罪と死に完全に勝利して、三日目に死から復活しました。イエス様が死から復活した時、隠れ家に隠れていた十人の弟子達に、イエス様は復活の姿を現し、十字架で出来た傷痕を見せて、『平安があなたがたにあるように』(19、21節)と二度伝えました。しかし、その場に、十二弟子の一人トマスはいませんでした。トマスは、他の弟子達に、「復活の主イエス様を自分の目で見て、手で確かめなければ信じることはできない」、と生々しい願いを伝えたのです。トマスの疑い深さについて、三つの原因を考えることができます。①人生の絶望、死で全てが終わる人生の空しさへの絶望。②人生の孤独、イエス様との死別そして仲間から取り残された孤独。③罪意識、イエス様を裏切り見捨てた罪意識。トマスは自分の疑い深さから解放されるために、主の臨在に触れる、目に見える奇跡を願ったのです。目に見える奇跡に頼る、目で見て信じる信仰は、人間の疑い深さを解決しません。見て信じる人でなく、見ないで信じる人が幸いです。
2.見ないで信じる人
復活の主イエス様は、トマスの願い通り、トマスにも死から復活した姿を現しました。トマスは、「見て信じる人」から、「見ないで信じる人」への橋渡しをする大切な役割を果たしました。復活の主イエス様は、トマスの目には見えていない時、トマスの人生の絶望、人生の孤独、罪意識を知ってくださっていたのです。弟子の仲間達が、トマスの人生に平安を与える福音を伝えていました。目に見えない復活の主イエス様が、トマスのことばを聞き、トマスを愛していたのです。トマスの罪を赦していたのです。トマスは、目に見えなくても、今も生きておられ、共にいてくださる復活の主イエス様の愛に触れた時、信じることができなかった自分の罪を悔い改めて、『私の主、私の神よ』(28節)と信仰を告白したのです。
3.みことばで信じる人
「見ないで信じる人は幸いです」、と言っても、盲信するのではありません。みことば(聖書のことば)で信じるのです。聖書が書かれた目的は、イエス様が神の御子キリスト(救い主)と信じて、永遠のいのちを得るためです。みことばから、目に見えない復活の主イエス様が、今も生きて共におられること、私達に永遠のいのちを与えてくださることを信じようではありませんか。
見て信じる人でなく、見ないで信じる人、みことばで信じる人が幸いです。
関連聖書箇所
◎ヨハネの福音書11章16節
16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
◎ヨハネの福音書14章5節
5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」