<信仰に生きる敬虔は全てに有益 テモテへの手紙第一4章1~10節>
現代社会では、『敬虔』ということばは、誰も注目しなくなった、ほぼ「死語」となったことばです。「まじめすぎる」「律法主義的」と悪いイメージで理解することもあります。『敬虔』とは、「信仰に生きる」ことです。神様は、『信仰に生きる敬虔は全てに有益(役立つ)』と教えています。
信仰はみことばで養われ、敬虔のために自分を鍛え、生ける神に希望を置く。
1.信仰はみことばで養われる
新約聖書の中で『敬虔』(日本語)は、32回使われており、牧会書簡では13回、全体の40%が使われています。このことから、『敬虔』(信仰に生きること)が、牧会書簡の最重要なキーワードであることが分かります。『敬虔』(信仰に生きること)こそが、牧会の働き、教会を建てる働きの原点です。
パウロは、若い牧師テモテが牧会しているエペソ教会の試練について、テモテにアドバイスをしています。エペソ教会の試練とは、「異端の教え」です。グノーシス主義(ギリシャ哲学からの異端)は、霊肉の二元論から、霊(精神)は善で、肉(物質)は悪と教えました。霊(精神)を高めるために、肉(物質)を禁じたのです。彼らの良心は麻痺し心の痛みなく、「結婚を禁じ」「食物を断つ」ことを教えたのです。パウロは、テモテの信仰が、真理(イエス・キリスト)を伝えるみことばで養われた。だからこそ、テモテが、異端の教えに苦しむエペソ教会の兄弟姉妹の信仰を、真理のみことばで養い、立派な奉仕者になって欲しいと願っているのです。偽りが蔓延る時代、価値観が混乱した時代に、私達の信仰が真理のみことばで養われることを願いましょう。
2.敬虔のために自分を鍛える
私達は、「信仰」と「生活」を区別し使い分ける二元論に陥る誘惑に注意しなければなりません。日曜日は信仰的に振る舞うが、平日は信仰を忘れた生活をしているならば、私達の信仰は成長せず、衰弱します。生活の中で信仰が働かないことで、この世の偽りにだまされやすくなります。だからこそ、パウロは、『肉体の鍛錬』(スポーツすること)にたとえて、『敬虔(信仰に生きる)ために自分を鍛える』(7節)こと、現実に信仰に生きることを教えているのです。『肉体の鍛錬』に比べて、『信仰に生きる敬虔は全てに有益』(8節)です。私達の生活の全て(教会生活、家庭生活、子育て、仕事、奉仕など)において有益(役立つ)のです。そればかりか、神の国の完成のために有益(役立つ)のです。
信仰に生きる敬虔に伴う神様からの祝福を教えていただきましょう。
3.生ける神に希望を置く
スポーツをすれば、息切れし体の痛みを覚えます。スポーツをしたことでの爽快感は、スポーツすることの魅力です。信仰に生きる敬虔な生き方には、労苦と苦闘が伴います。しかし、敬虔な生き方には、生ける神に希望を置くことができる、その希望は失望に終わらない爽快感が常に伴い続けるのです。