宣教メッセージ

2025年5月11日東村山キリスト教会子ども祝福礼拝式 説教要旨

<イエス様の愛のもとへ ルカの福音書15章10~32節>
イエス様は、「放蕩息子のたとえ話 (父が見失った息子のたとえ話)」から、「イエス様の愛のもとへ戻る」ことを教えました。
イエス様の愛を知り、イエス様に罪を謝り、イエス様の愛に生きましょう。
1.イエス様の愛を知りましょう
イエス様のたとえ話の中で、私たちはどうしても、父親の弟息子への愛のみに注目してしまいやすいのですが、父親は弟息子を愛する同じ愛で、兄息子も愛しています。①父親の弟息子への愛。父親は、弟息子の求めに応じて、財産を分けました。神様の愛は私たちを信頼する愛です。弟息子が自分の罪を謝るために父のもとへ帰って来た時、父は弟息子の帰りを待ち望んでいたのです。神様の愛は、私達を待ち望む愛です。父親は弟息子を『かわいそうに思い』『駆け寄り』『抱きしめた』のです。神様の愛は、「かわいそうに思う愛」「駆け寄る愛」「抱きしめる愛」です。父親は弟息子に、『一番良い服』『指輪』『くつ』を与え、お祝いを始めました。神様は私達に良い物を与え、私達を祝福する愛です。②父親の兄息子への愛。父親は兄息子を信頼して財産を分ける愛です。父親は、怒って家に入ろうとしない兄息子を慰めるために、家の外に出る愛です。父親の愛は兄息子といつも一緒にいる豊かな愛です。
イエス様の愛は、分け隔てのない「かわいそうに思う愛」「駆け寄る愛」です。神の御子イエス様は、私達の罪の身代わりに十字架で死に、死から復活し、私達の罪を赦してくださったのです。イエス様の愛を知りましょう。
2.イエス様に罪を謝りましょう
①弟息子の罪。弟息子は父親の信頼を裏切り、父親に背を向けて、自己中心、身勝手な生き方をしました。その人生の惨めさに気付いた時、父親に罪を謝りたいと思ったのです。父親は、罪を謝る弟息子を『かわいそうに思い』その罪を赦したのです。②兄息子の罪。兄息子は父親から離れず、近くに暮らしながら、父親に心を閉ざしていたのです。「言いつけだけ」を嫌々ながらに守っていたのです。父親の愛を理解し、喜んでこたえて生きる人生ではありませんでした。父親は、兄息子が父親に心を閉ざしている罪を謝ることを願ったのです。私達は、神様に背を向け、自己中心、身勝手な生き方をする罪を謝りましょう。私達は、イエス様の身近に暮らしながら、イエス様の愛に慣れてしまう罪、イエス様に心を閉ざしている罪を謝りましょう。
3.イエス様の愛に生きましょう
①弟息子への祝福。『一番良い服』(キリストに似た者に変えられる祝福)。『指輪』(神様の子である特権の祝福)。『くつ』(キリストに喜んで従う人生の祝福)。②兄息子への祝福。イエス様がいつも一緒にいてくださる豊かな人生の祝福。イエス様の愛に生きることには、このような神様の豊かな祝福があります。イエス様の愛に生きましょう。

●東村山キリスト教会子ども祝福のことば
神様は、それぞれの家庭と教会に、こどもたちを与えてくださいました。
こどもは神様から与えられた賜物、祝福、私たちの喜びです。主イエス様は『こどもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです』(マタイ19章14節)と言われ、どんな小さな幼子も、イエス様の御前から、しりぞけませんでした。天国を地上にあらわす主日礼拝に、イエス様はこどもたちも招いています。どんな小さなこどもであっても、主を礼拝し、主から祝福の恵みを受けることができます。教会にとって、こどもたちは大切な求道者であり宝です。主日礼拝は『御霊と真理による礼拝』(ヨハネ3章24節)です。聖霊が豊かに神の御業をなし、イエス・キリストの十字架による罪の赦しと、永遠のいのちへの希望のある、御霊と真理による礼拝の中で、こどもたちも主の御心にかなった真の礼拝者、真の信仰者へと成長すると私たちは信じます。
こどもたちが主日礼拝に出席し、主イエス・キリストへの信仰を告白し、キリストのみからだである教会の枝となり、主のみことばに聞き従う者となることが、こどもたち一人一人の生涯にわたる祝福のもといです。
主日礼拝の中で、私たちは愛と忍耐と寛容さを持って、こどもたち一人一人の信仰の成長を見守りましょう。
こどもたちも主日礼拝に出席し、主に愛されていることを知り、主を心から礼拝しましょう。
こどもたちが主への信仰を告白し、主を礼拝できるようになるために、こどもたちのために祈り、こどもたちを育て導く責任が親と教会にあります。

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