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2024年9月8日東村山キリスト教会敬老祝福礼拝式 説教要旨

<なんと幸いなことでしょう 詩篇84篇1~12節>
私達は年齢とともに、体力、知力、心が衰えます。そして、時代の患難、人生の試練が絶えず私達を試みます。そのように衰え試みられる私達は、人生を生きることに、不安、恐れ、心細さを覚えることがあるのではないでしょうか。しかし詩篇84篇は、『なんと幸いなことでしょう』(4、5、12節)と繰り返し教えています。なぜ、『なんと幸いなことでしょう』と言えるのでしょうか。主の家に住む人、主の力がある人、主に信頼する人は、なんと幸いなことでしょう。
1.主の家に住む人の幸い
詩篇84篇は、「巡礼者の喜びの詩篇」と言われています。エルサレム神殿で行われる三大祭りに、多くのユダヤ人は巡礼の旅に出かけました。詩篇84篇は、巡礼についての三つの段階に分けることができます。①巡礼の出発(1~4節)、②巡礼の道中(5~7節)、③巡礼の到着(8~12節)。巡礼者は、エルサレム神殿(主の家)を恋い慕う思いから、巡礼の旅に出発します。彼は、エルサレム神殿の軒下に巣を作る「すずめ」「ツバメ」を羨ましく思います。そして、エルサレム神殿でいつも奉仕し暮らしている祭司やレビ人を羨ましく思います。しかし巡礼者は、巡礼の途中で彼の考え方を成熟させています。巡礼の途中であっても、主の家を恋い慕い、心がまっすぐ主に向かっている巡礼者 (5節)は、すでに主の家に居場所があることで、幸いなのです。私達は人生の巡礼の旅路で、自分が何者であるのかを失う喪失体験を繰り返します。しかし、私達は貧しい弱い存在であっても、祭壇のところに居場所が与えられた小鳥のように、主の家に居場所が与えられているのです。主の家に与えられた居場所は、永遠に失うことがない確かな居場所なのです。
2.主の力がある人の幸い
巡礼者が巡礼の旅路で知った幸いは、「主の力がある人の幸い」(5節)です。巡礼者は、「乾ききった谷」を通ることで四苦八苦する、『涙の谷』(6節)を通る経験をします。しかし巡礼者は、「主の力」が、『涙の谷』を『泉の湧く所』に変えること、『涙の谷』を『大いなる祝福でおおう』ことを知ったのです。このことは、主のことばから主を知ることによる内面の満たしであり、主の力によって試練に道が開く奇跡と言えるでしょう。弱い時こそが主の力を知る絶好のチャンスです。私達の人生の旅路は、「弱さから弱さへと進む」旅路だからこそ、信仰者の旅路は「主の力から主の力へと進む」旅路なのです。
3.主に信頼する人の幸い
巡礼者は、エルサレム神殿に到着し、巡礼の旅路を総括して、「主に信頼する人の幸い」を伝えています。主に信頼する人の幸いとは、①主の家で過ごす一日の幸い(10節)、②主の家の門口に立つ永遠の祝福の幸い(10節)、③絶えず良きものが与えられる幸い(11節)です。『なんと幸いなことでしょう』と主への信仰を告白しながら、天国に向かう人生の巡礼の旅路を続けましょう。

関連聖書箇所
◎Ⅰコリント書10章13節
13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

◎Ⅱコリント書12章9、10節
9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

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