<天の御国は近づいたから マタイの福音書3章1~12節>
私達がもがき苦しむ「人生の荒野」は、天国から一番遠い所のように思えます。しかしそうではありません。「ユダヤの荒野」で、バプテスマのヨハネは、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』(2節)と宣べ伝えたのです。天の御国が近づいたから、人生の荒野で罪を悔い改め、聖霊と火のバプテスマを受け、悔い改めにふさわしい実を結ぶ。
1.人生の荒野で罪を悔い改める
イエス・キリストの先駆け(道備え)としてのバプテスマのヨハネが、ユダヤの荒野に現れました。彼は『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と教えました。『悔い改める』とは、神様に背を向けて自己中心に生きてきた罪を認め、神様に向かう人生に、生きる方向を180度変えることです。『天の御国が近づいた』とは、旧約聖書が預言していた救い主キリストがこの世に来られ、今まさにその姿を現そうとしていることを意味しています。救い主キリストの先駆けとしてバプテスマのヨハネが現れることで、マタイ3章3節(イザヤ書40章2、3節)のみことばが成就しました。イザヤ書の預言は、イスラエルの民がバビロン捕囚からエルサレムに帰還する預言でした。彼らにとって、最も大切なことは、『主の道を用意する』(3節)こと、つまりは神様の御許に立ち戻ることです。人生の荒野で、罪を悔い改めようではありませんか。
2.悔い改めにふさわしい実を結ぶ
バプテスマのヨハネが授けたのは、『悔い改めのバプテスマ』(11節)でした。ユダヤ教において「バプテスマ」 (洗礼)は、ユダヤ人ではない異邦人が改宗した時に、改宗したことを公にする儀式の一つでした。ユダヤ人は『バプテスマ』を受ける必要はありませんでした。しかし彼は、ユダヤ人にも罪の悔い改めを求め、罪を悔い改めた証しとしてバプテスマを授けたのです。当時、そのことがブームとなり、外見的な「きよさ」「敬虔さ」だけを求めて、バプテスマを受けに来る者達がいたのです。その中には、ユダヤ教の宗教指導者達もいたのです。彼らは外見的な「きよさ」「敬虔さ」、見栄えの良さだけを求め、罪を悔い改め、神様との生きた交わりを持とうとはしませんでした。ヨハネは彼らに『悔い改めにふさわしい実を結ぶ』(8節)ことを求めました。内面が変わることで、外見の行いが変わることを求めたのです。
3.聖霊と火のバプテスマを受ける
ヨハネが授けたのは、『悔い改めのバプテスマ』であって、悔い改めにふさわしい実を結ばせる力はありません。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰によって与えられる、『聖霊と火のバプテスマ』(11節、聖霊と火に浸されること)によって、悔い改めにふさわしい実を結ぶことができるのです。天の御国が近づいたから、人生の荒野で罪を悔い改め、聖霊と火のバプテスマを受け、悔い改めにふさわしい実を結ぼうではありませんか。
聖書箇所
◎ヨエル書2章12、13節
12 「しかし、今でも──【主】のことば──心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」
13 衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、【主】に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。
◎イザヤ書40章2、3節
2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」
3 荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。