宣教メッセージ

2025年8月31日東村山キリスト教会主日礼拝 説教要旨

<義の栄冠を目指して テモテへの手紙第二4章6~8節>
私達は、入試で不合格になったり、入社試験で不合格になったり、自分が希望した職業や地位に付くことができなかったり、失恋を経験したりします。しかし「義の栄冠を目指す」ことにおいては、『だれにでも(義の栄冠が)授けられる』のです(8節)。義の栄冠を目指して、世を去る時まで、信仰を守り通すならば、だれにでも授けられる。
1.世を去る時まで(死生観)
使徒パウロは、ローマの獄中で殉教の死を前にしながら、「自分の死」を『注ぎのささげ物』(6節)にたとえています。第一回目のローマでの獄中生活の中で、彼は自分の死を『注ぎのささげ物』(ピリピ書2章17節)とたとえています。自分の死でキリストがあがめられ、自分の死がキリスト者の信仰の豊かな養いとなることを喜んでいるのです。使徒パウロは、「自分の死」を『世を去る(出発)』(6節)と言っています。自分の死で、古い不安定な生活から解放され、新しい確かな世界への出発と考えていたのです。なぜ、使徒パウロは自分の死についてそのように考えることができたのでしょうか。使徒パウロは『あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです』(8節)と言うことができたからです。彼が善行を積み上げたからではありません。イエス・キリストが罪の身代わりとなって十字架で贖いの死を遂げて、罪と死に完全に勝利して、三日目に復活してくださったからです。『キリストは死を滅ぼした』のです (Ⅱテモテ書1章10節)。
2.信仰を守り通す(人生観)
使徒パウロは、7節で三つの動詞(『戦い抜く』『走り終える』『守り通す』)を完了時制(過去のある時点から今に至るまで継続している)を用いて、パウロの人生観を伝えています。『走るべき道を走り終える』(7節)とあるように、神様が、伝道者としてのパウロに期待している「人生の道のり」を走り続けてきたのです。私達にも、神様が私達に期待している、人と比べることができない、唯一無二の人生の道のりがあります。その人生の道のりには、病気や障がいがあるかもしれません。しかし神様が私達に期待していることは、『(信仰の戦いを)勇敢に戦い抜き』『信仰を守り通す』(7節)ことです。イエス・キリストの十字架の贖いの死と復活を謙遜に仰ぎ見ながら、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエス・キリストの後に従うことです。
3.だれにでも授けられる(人生の目的)
使徒パウロは、悪名高いローマ皇帝ネロによる不当なさばきによって殉教の死を遂げるという重い現実の前に立っています。しかし、正しいさばき主であるイエス・キリストが義の栄冠を授けてくださることを信仰の目でしっかりと見ています。イエス様を愛しイエス様を待ち望む者であれば、だれにでも義の栄冠を授けてくださるのです。

関連聖書箇所
◎Ⅱテモテ書1章10節
10 今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。
◎Ⅱテモテ書2章15節
15 あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。
◎Ⅱテモテ書3章16節
16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
◎Ⅱテモテ書4章2節
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
◎ピリピ書2章17、18節
17 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
18 同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。
◎ピリピ書1章20、21節
20 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
◎使徒の働き20章23、24節
23 ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。
24 けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。
◎マタイの福音書16章24節
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

関連記事